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広野町議・畑中ひろこの広野通信*福島原発避難者訴訟第二回口頭弁論開かれる

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11月27日午後2時から、福島地裁いわき支部において、福島原発避難者訴訟(早川篤雄原告団団長外38名)の第二回口頭弁論が開かれました。
 私は、この裁判を傍聴するために、裁判前に行われた八幡神社からのデモ行進にも加わりました(写真はそのときのものです)。
 この日の原告側代理人は13人の弁護士でした。被告側代理人は4人でした。
 裁判が始まるとすぐに意見陳述に入り、双葉町の小川貴永さんが裁判官の前に立ちました。
 小川貴永さんは、生まれてから高校を卒業するまで双葉町で過ごし、大学を卒業後東京で就職し、そこで10年ほど暮らしました。Uターンして双葉町の農業組合に就職し、茨城県つくば市にある果樹研究所でも2年間研修しました。その後、新規就農して、1.6ヘクタールの農地を開墾し、お父さんと二人で養蜂場や畑作をし、品評会で最優秀賞をもらう蜂蜜を作ったりしていました。平成23年3月11日の津波では、命からがら逃げることができて、家族もみな無事でした。
 しかし、3月12日の原発の爆発で、避難所からわけもわからないまま北に向かって逃げて、川俣町の飯坂小学校、さいたまスーパーアリーナ騎西高校、リステル猪苗代、郡山市仮設住宅と6ヶ所も転々としました。二人のお子さんはまだ幼いし、高齢のお祖母さんもいます、双葉町に帰る目処はたっていない中で、東京電力の示す賠償額の低さに憤りを覚える、加害者が勝手に決める賠償ではなく、公平な司法判断をしてほしいという陳述でした。
 二人目の陳述者は楢葉町の早川千枝子さんです。
 「私の家は、福島第一原発から20㎞圏内にあるお寺です。主人は、原発で事故が起きたときの恐ろしさを常に話し、私たち家族はもとより楢葉町の人たちの生命を守るため、住民運動を続けてきました。もし原発で事故がおきたらみんな避難しなければならず、双葉郡は誰もいなくなってしまうんだと。特に、チェルノブイリを見てきてからは、あのようになってしまうのだとよく言っていました」。
 早川千枝子さんは、障害をもった方々を支援する施設を立ち上げ運営していました。3月11日、原発事故が起きてから、障害を持った方々12人と学校の体育館に避難したのですが、14日に役場職員が来て、窓を閉めて、換気扇を止めてなど、緊迫した指示が出されました。第一原発の3号機が爆発したのでした。
 長引く避難生活で、大切な人をたくさん亡くしました。千枝子さんの実のお母さんは90歳でした。避難しているときに骨折で入院し、医者や薬局が不完全な中での死でした。「楢葉に帰りてえなあ」といつも言っていました。千枝子さんはお母さんの死を受け止めることが怖くて、お母さんの居た家にはその後一度も入っていないそうです。
 運営していた施設に入所していた障害を持った方々は、避難生活中に3人が亡くなりました。避難生活をしているいわき市内の病院で、医師も看護婦も薬も不足状態が続くという悪条件が重なりました。
 失ったものは大切な人だけではありません。何十年とかけて築いてきた人生の歴史、思い出や生きがい、そして平和な暮らし、そのすべてを放射能で汚され、取り戻すことができなくなりました。
 楢葉町には、孫たちが生き生きと遊べる自然がありました。畑で採れたばかりの野菜を食べることができました。孫は主人といっしょに田植え機に乗って田植えもしました。今は入れるようになった楢葉町ですが、原発事故のあと、草や葉っぱ、土も木戸川も、孫たちが触れるものはありません。
 「たとえ子どもたちを連れて帰ることができなくとも、私はもう一度、ここで暮らしたい。そんな思いから、楢葉に帰るたび、家の中の整理を始めました。
 私の家は地震でびくともせず、原発事故さえなければそのまま生活できていたのに、布団も毛布も服も茶碗も鍋も、すべてが湿気やカビやしみやねずみの被害で使うことはできなくなってしまいました。家の中のものはほとんどすべて袋に入れゴミ捨て場へもって行きました」。
 「家族みんなが作り上げてきた、歴史や思い出、すべたがただのゴミになって、ゴミ袋に詰めなければならない悲しみ。この気持ちがわかりますか」。